01.非の打ちどころが無いが、扱いにくい子ども
非の打ちどころが無いが、扱いにくい子ども
埼玉県所沢市で生まれた私は、小さい時から他とは少し違う子どもだったかもしれません。祖母、父母に兄と妹の6人家族で、父は色々な企業の社長をしていました。今でいうプロ経営者と言うのでしょうか、西武鉄道のグループ会社や商社など業種は様々。家より海外にいる時の方が多いような人でした。親戚も皆、名門大学を出た経営者や企業の重役ばかりで、天皇陛下に表彰を受けるような人もいました。そしてそれがごく普通な環境でした。
私自身、特に勉強せずともテストはいつも100点、というタイプでした。授業中は先生を質問攻め。分かるまで聞いた後で「そういうことなら、こうやって教えた方がわかりやすいんじゃない?」と、先生の代わりに黒板の前にたって即席の授業をはじめるような生徒でしたから先生も扱いづらかったと思います。
中学になってもそれは変わらず、少し授業を受ければその後の展開も含めてすべてわかってしまうので途中で教室を出てタバコを吸いにいったりしていましたね。授業中に放送室をジャックしたこともあったかな。ここまでやりたい放題していたら、いくら勉強ができてもさすがに問題児でしょう。
バレー部のキャプテンで生徒会長も務めるような非の打ちどころがない経歴でしたが、100年以上の中学校史上初めて、生徒会長なのに卒業生の答辞を任せてもらえないという不名誉な歴史をつくってしまいました。
02.個性を殺す社会に覚えた怒り
それでも勉強は出来たので、高校受験は偏差値70以上の学校にいくつも合格していました。ただし、都内の高校ばかりだったので所沢からだとさすがに通学に不便です。そこで地元の川越高校に進学することにしました。それでも偏差値は70くらいありましたが。
高校入学後、問題児ではあるものの成績優秀だった私は、急速にそのレールからドロップアウトすることになります。
1つは学歴や偏差値を重視することへの強烈な違和感です。自分も偏差値は高い人間ですが、中学まで学歴なんて気にしたこともありませんでした。それが高校に入った瞬間に、大学はどこを狙うか、東大か早稲田かみたいな話ばかりが聞こえてくるのです。友達が恋愛で悩んでいたり、家庭の問題で苦しんでいても、みんな素知らぬ顔で図書館や塾に消えていってしまう。
秀才揃いではあるので日本の歴史を考える会といった集まりや、日本の政治について議論をする生徒たちもいるんです。ただ、誰もが口ばっかりなんですよね。
地元でも有名なお坊ちゃん校ということもあり、ある日他校の不良たちに目をつけられて、校門前で通行料500円を徴収されるという事件がありました。それでも同級生は大人しくお金を払うだけ。私はふざけんな!とか言って一人で11人相手に飛び蹴りして、ボコボコにされていました。
一方で、「こいつはいい奴だな、信用できるな」と思える地元の友達や、「将来自分が家を建てることになったら、絶対こいつにお願いしたいな」と思える大工の倅なんかは社会的に評価されていないのです。その理由がまったく理解できませんでした。
違和感があるのは高校の内側だけではありません。あれだけ一緒に遊んでいた中学時代の仲間たちとも疎遠になっていきました。彼らにも悪気は無いのです。「川越高校に進学した奴をゲームセンターなんかに誘えないよな」という気遣いがそうさせてしまうのでした。
どうしてこんなことになってしまうのだろう。
自分が大切にしたいものを、大切にさせてくれない学歴や偏差値教育に心底嫌気がさしました。勉強に意味がないとはいいません。でも、学ぶこと自体は大人になってもできるはずです。なぜ15歳から18歳までのたった3年間のテスト成績が、その後の人生を変えてしまうのか。
いつの間にか私はほとんど学校に行かなくなりました。テストは全教科白紙で提出し、出席日数は1割ほど。大人がつくった社会がとにかく嫌いで、そのレールに乗っているくせにその社会に文句を言っている自分のことも嫌いでした。
03.人生を変えた2つの学び
そんな私も、高校は無事3年間で卒業します。0点や赤点ばかりの成績でしたが、学校側が留年者の実績を出したくなかったのかもしれません。希望の進路もなく、浪人生活を送ることになりました。
一応予備校にも通ってみたものの、校内では結局高校時代と同じような種類の人たちが目の色を変えて暗記に励んでいます。
その様子を見て、早々に通うのを辞めました。この人たちと一緒にいたくないな…とパチンコに行って現実逃避をずっとしていた記憶があります。結局、次の年に合格した東京国際大学に進学することにしました。お世辞にも偏差値が高い大学でありませんが、高校3年の受験でも合格していたところで、何だか縁を感じてしまったのです。
ここで出会ったビジネスの勉強が本当に面白かった。
商学部だったので、マーケティングや経営学やマネジメントといったいわゆるMBA的な内容を学ぶのですが、発見の連続なのです。「コカ・コーラがシェアNo.1を取ったのはなぜか」「イオンとダイエーのビジネスはどう違うのか」「工場の照明の色を変えるとワーカーの生産性はどのくらい変わるのか」といったことを学問として論立てている。そこには学歴や偏差値とは全く違った魅力がありました。自分は学歴を捨てドロップアウトした身なのだ、という自覚や反骨精神もあったのかもしれません。色々な本を読み漁り、授業も熱心に受けていました。
もう一つがパソコンとの出会いです。日本にインターネットが登場するのが1995年。
僕が入学したころにはまだ身近ではなかったのですが、高校時代からバンドをしていたこともあって、自動演奏システムといった音楽周りの流れから存在を耳にすることはありました。当時はまだ駅に黒板があって、「〇〇さん、駅前の喫茶店で待っています 田中」みたいなメッセージでやりとりしていた時代ですが、将来は電話を使って相手にメッセージを残してやりとりができるよとか、家庭間のゲーム機器がつながって通信対戦ができるとか、そんな未来が少しずつ語られはじめていました。今はもうすべて実現していますが、そうですね、今でいうAIのドキドキ感と似ていると思います。
SFが現実になって、世の中がひっくり返るんじゃないかというワクワクが学びに拍車をかけていました。
アメリカに短期留学したことも大きな経験でした。当時ちょうど彼女に振られた頃で(笑)、環境を変えようと提携校のアリゾナ大学に3か月間行ってみたのです。英語は全然わかりませんが、授業を受けて大学の仲間と話してみても、学歴の話など誰も口にしません。年功序列もないし、日本よりもITが生活に溶け込んでいる感じもする。ここでもっと学びたいなと思えたので、3か月の留学期間が終わった後も引っ越しのアルバイトで資金を貯めてはアメリカに旅行するということを繰り返していました。日本での学びもアメリカでの経験もせいぜい数年ですがとても濃密でしたね。
自分が興味あることを学んで、当時の日本にはまだない新しい産業に触れて、ワーカーとはまた違う「経営者」というものの勉強もできて…この期間が無ければ、僕のその後の20代の軌跡は無かったと思います。
04.生涯の師との出会い
大学も4年生、就活のタイミングを迎えた私は再び苦痛の中にいました。リクルートスーツを着て会社を訪問するなんて、
アメリカでは忘れることができた大嫌いな社会そのものだったからです。
特に意中の会社も無いので、本屋で無料の就職情報誌を仕入れてはパラパラとめくっていました。当時の情報誌にはハガキがついていて、気になる会社にチェックを入れるとその会社の資料一式が郵送で送られてくる仕組みです。就活の軸が無い自分にとってはどの会社も一緒。すべての会社にチェックを入れて送ってみました。すると2~3日後から、家の天井まで何往復もするくらい大量の資料が次々と届くのですが、どの会社もおじいちゃんが誰でも言えそうなことを話しているものばかりです。
なんか違うな~と、封筒を取った手がぴたりと止まりました。
「学歴年齢性別国籍一切不問、全員経営者扱い、目指すは日本一」
確かそんなキャッチコピーだったと思います。資料にかけるお金が無かったのでしょう。大量に届いた資料の中で、唯一白と青でペラペラの会社案内です。それでもこのキャッチコピーには、ここ何年か自分の中で悶々としていた想いの答えが詰まっているような気がしました。自分が打破したいことに、一歩先に取り組んでいる人がいる。それが、のちにお世話になる光通信でした。
早速面接に行ってみると、傍から見てもとにかくハチャメチャな環境です。面接会場のすぐ隣がオフィスらしいのですが、とにかく騒がしい。机をたたく音とか叫び声が聞こえてきて、部活の体育館かと思うくらいほどです。でもそこを行き交う社員たちはカッコいいんです。スーツをびしっと着こなして、髪もしっかりセットして。同年代のはずですが何だかまぶしく見えました。片っ端から資料請求したこともあって、他の会社も受けてはいたのです。なかには電通や日本テレビやSONYといった大手もありました。リクルートスーツの同級が並ぶなかTシャツにGパンで面接を受けていましたが、日本でもアメリカでもしっかり学んで、ちゃんと語れるものですから面白がられてそれなりに通過もしていました。ですが、大手企業の二次面接会場でお話する人は、どこでもおじさんやおじいさんばかりで。ビルは大きいけど小さく見えるなこの人たちは、と感じていました。
光通信での何回目かの面接での出来事です。その日はロープレがありました。面接官がボールペンを手に「これを10万円で売ってみて」と言うのです。私の答えは「できません」でした。
だってそのボールペンがせいぜい100円か200円だということを知っているのです。「100円で買えるものを10万円で売るような商売は最悪です。僕がどれだけ嘘つきか試さなくていいから、このビルで一番偉い人とお話させてください。この場は、僕が皆さんを選ぶ場でもあるわけですから」とまくしたてました。
その時です。会場にオーラが明らかに違う男性が入ってきました。
後に知りますが、彼こそ創業者の重田康光さんの右腕の上原悦男常務でした。一目で、私は彼に見惚れてしまいます。貫禄も目力も他の人とは比べ物になりません。
「何だか君面白いね。一緒に働こう。明日から来れる?」
当然次の日も大学があったのですが、思わず「はい」と握手をしている自分がいました。こうして、私の光通信でのキャリアがスタートしたのです。
05.刺激的な社会人生活と叶えた理想郷
当時急成長を遂げていた光通信は、面接で感じていた以上のハチャメチャな環境でした。オフィスに行くと、机の上にあった別の人の名刺とパンフレットを渡されて「これ使って営業行ってきて」などと言うのです(笑)
正式な順序を経て入社しているわけではないので、きっと会社の名簿にも名前がなかったのでしょう。名刺だけではなく椅子も机も全く用意されていません。研修もほぼ無いに等しいですし、交通費精算も「あそこの段ボールに入れといてくれたらそのうちやるね」といった形。
受け身の社員だったらきっと「なんてブラックな」と感じるかもしれません。でも、私はそんな環境がとにかく面白かった。未完成でぐちゃぐちゃな感じが改善の宝庫なのです。
例えば営業現場。当時まだ日本に根づいていない新電電(現KDDI)が商材なのですが、テレマーケティングやWEBマーケティングが無い時代ですから基本は飛び込み営業です。ただし、各自の営業が好き勝手飛び込んでいる状態でした。普通は地域ごとに手分けして担当するでしょうし、この会社は契約済、あの会社は訪問済だから飛び込んでもダメといった台帳があるはずです。
尋ねてみると「会社なんてしょっちゅう倒産するし、移転もする。面倒くさいこと言わずに飛び込んで来い」との返事です。とにかく気合でカバーしているのだなと、いうことだけは骨身に染みました。
それでも、在学時から働くことができて良かったなと思います。当時の光通信は社員証がバッジになっていて、一定の売上を獲得した人だけが着けることを許されていました。たとえ正社員でも売上未達ならバッジはもらえません。事務所にいてもその人の売上が一目瞭然なのですね。入社式にずらりと並ぶ新卒組の中で、唯一バッジをつけていたのはおそらく私だけ(当たり前ですが)。あの時の高揚感は今でも忘れません。
飛び込み営業は、他のどの仕事にもない厳しさがあります。はじめましての会社にアポなしでお邪魔して、受付の方に取り次いでもらって、その後社長室に入れてもらわなければなりません。断られるのが普通ですから、雨の日も雪の日も、エレベーターも無い雑居ビルの階段を上がっては何十社も訪問する。そうやって数をこなすことで、少しずつ質が上がってきます。
話し方、表現の仕方、身振り手振り…私のことを誰一人知らない空間で信頼をいただき、契約を取るまでの一連のプロセスをひたすらに反復し、PDCAを回す日々。営業力がぐんとついたと思います。
しかも売っているのは情報通信の新しいサービス。市場普及率数%、という商材です。ニーズが顕在化していないのですからプロダクトアウトで売らないといけません。こうしてただでさえ厳しい会社のさらに最も厳しい部署で学んだ日々が今の私をつくっています。
その後20代後半で光通信の取締役に、30代で常務を任せられるようになりました。自分の部下は1万人。そこまでのし上がれた原動力は学生時代に感じていた学歴や偏差値への違和感でした。誰かがつくった社会のレールではなく自分の力で道を切り拓いていく。学歴が無くても年齢が若くても、実力さえあればいくらでも稼げるし社会的地位をあげることができる。それを証明したかったのですね。
その相棒が、これからの社会を変えていくインターネットというのも使命感に火をつけていました。これからの日本はこのインターネットの時代に遅れてはいけない。何歳であってもチャンスをつかめる社会であるためには、この技術を根づかせなければいけない。その思いで全国を飛び回りました。
長野や群馬の山奥で、従業員2名とかの会社に飛び込むのです。まだ黒電話を使っているような会社で「NTTさんですか?」なんて言われて。「いえ、違います」「じゃあ用は無いから帰ってもらえますか?」「いや、それが違うのです。もう関係無いなんて言っていられない時代になっているんです」などと会話しながら、パソコンを入れるところから始まります。電子メールの設定をしてあげて、ドメインを取得して…とつきっきりで環境を整える。先方からすれば導入のメリットが分からないので、最初は初期費用をこちらで負担して通信端末をプレゼントしていました。経営陣が20代だった時の借入額は会社全体で70億円です。ここまでやることが絶対にお客さまのためになる。その信念が無ければできませんでした。
自分たちと同じような代理店機能を持つライバルには、大手の商社や有名家電量販店がいました。ネームバリューでは負けていましたが、私は部下たちにこう言っていました。「相手が有名かどうかなんて関係ない。社員の学歴も年齢も関係ない。とにかくお客さまの役に立って、ライバルを全員抜いてやろう」
そう発破をかけるたびにメンバーの目の色が変わるのがわかりました。
1995年にWindows95が発売されインターネットが世の中に広まった時に、先進国で最も普及率が低く通信コストが最も高かった国は日本です。その日本で、私たちは99.8%を占める中小企業と一軒一軒繋がっていったのです。そしていつしか契約企業は100万社を超えていました。
33歳になった時のことです。ふと周りを見渡すと、自分の周りは20代の人ばかりになっていました。どの大学を出たのか、誰が年上で誰が年下なのかなんて誰も気にしない。でもそれぞれがグループ会社の社長といった重責を担って、普通の人の何倍も稼いでいる。
まだまだ小さいけれど、自分が理想としていた世界が実現しているなと思いました。学歴も年齢も、成功には関係なかっただろう?インターネットと学歴社会、2つの常識をひっくり返してやったぞと、誇らしい気持ちになりました。
06.日本の未来をかけた海外進出
現在事業の中心となっている海外に目を向けたのは、やはり重田さんの影響です。売上3000億円を達成した時でしょうか、重田さんに「早く1兆円にしてよ?」と言われたのです。正直褒めてもらえると期待していたのですが(笑)、次なるハードルが天文学的です。国内だけではとても無理だと思いました。
ちょうどその頃、私はアリババの存在を知ります。今や誰もがその名をしる中国のスーパー企業ですが当時は全く無名の存在。通信事業でソフトバンクとのお付き合いがありましたから企画会議に潜り込んで、やがてアリババの日本代理店事業を開始しました。当時は向こうからも信用されていなくて。アリババを名乗ることを許されず「アリ マーケティング」という中国本社非公認的な立場でのスタートでしたね。あっという間に業績を出して、4か月後に「ババ」を貰いましたが(笑)
こうしてAlibaba.comという世界的なオンライン展示場には日本の多くの企業が加入しましたが、その実情は簡単ではありません。輸出額を伸ばす企業は、人材がそろっていて自力でPDCAを回す余力があるところばかり。どうにかしたいと思ったものの私自身が海外でセールスをしたことがない矛盾に気づきます。そこで全ての職を捨ててドバイに行くことにしました。サンプルやカタログをカバンに詰め込んで各国のあらゆるバイヤーに飛び込み営業です。大赤字をつくりながら少しずつ実績を出し、日本のプロダクトが売れるプランを一つずつ考えていきました。
しかし99%の日本企業は「プランはいいけど実行する社内体制が無い」と言います。グローバルで活動できる人材は一つの部署に居ればいいわけではありません。現地にも本社にも、営業にも製造にも海外市場を理解し、時には現場に飛んで英語で交渉できる人材がいなければ無理なのです。
今私たちの会社は日本のグローバル展開を成功させるために、多くの日本企業の組織、人材をグローバル化させることを目指しています。日本企業と海外企業を展示会でマッチングさせることだけでは足りません。日本企業が自走し、グローバルマーケットで勝ち、そして日本のGDPが向上する。そんな世界を実現したいと考えています。
07.全員が経営者
グローバルパートナーズが掲げているのは「全員参加型経営」です。私は新人だろうかベテランだろうが全員が経営者だと思って接しています。ですから、あまり採用という感覚もないんですよね。もちろん必要なことは何でも教えますよ。営業の仕方、経営の仕方、資金調達、資金運用、商品企画、教育、顧客管理、労務、法務…
そうして、私のもとを巣立ち独立した経営者は700人以上になります。あまりアピールはしていないのですが、日本一じゃないかと思っています。
「全員参加型」には情報のフルオープンという意味も含まれています。例えば全社員が全社員の給料を知っています。売上も販管費も1円単位で全て開示していますし、取引先との契約内容やクレームもすべてオープンです。私の部屋にはカメラがついていて全社員がそれを見ることを許されています。一人で部屋にいると「ちょっといいですか」って新人が相談しに来ますよ。それでいいのです。
もちろん、オープンにするからこその衝突も発生します。昇給昇格や賞与計算も各部署の社員が上程して決めるのですが、「あの部署だけずるい」みたいなハレーションも生まれるわけです。そうなれば次の賞与の時にまた変えればいい。「あの部署とウチの部署は、売上額こそ同じだけど、関与の割合はウチの方が直接的だから係数をこう変えよう」といったことを、社員同士が自発的に話しています。話したことが実現するから当事者意識も高くなります。例え自分の給料が下がっても「仕方ないので次頑張ります」となるし、「ルールがフェアじゃないので、次の機会に提案します」となりますよね。
ですから、当社には指示待ちの方は合いません。グローバルパートナーズが飲食店だったとしましょう。お客さまが赤ワインをオーダーした時に「すみません、仕入れていません」と言うだけの人は、私たちの社員にはいないでしょうね。たとえホール担当だろうがシェフと喧嘩してでも仕入れを変えろと交渉するでしょうし、競合店にお客さまが流れれば目の色変えて味つけを変えろと言うと思います。そうやって上がった利益を皆で分けるから、当社では入社初年度で1000万円を超える年収を稼ぐことができるのです。
今のトップセールスの子は家賃3万5000円のシェアハウスに住みながら運転手付きのハイヤーで通勤しています。月額70万円かかりますが費用はもちろん会社持ち。私たち役員は電車通勤です。最近は社員全員が年収3000万以上を目指そう!と掲げています。
収入だけではありません。働き方や仕事の仕方も社員に任せています。副業ももちろんOKだし、やりたいことが見つかったらどんどん独立すればいい。失敗したら戻ってくればいいです。昨日も退職した子が僕の部屋の隅っこでずっと仕事しながら、次に起こす事業の相談をしてきましたよ。光通信の時から通算で最多で出戻り6回という人もいますから(笑)。
採用面接に来た人が「この人も一緒にいいですか?」って受かってもいないのに勝手にもう一人連れて来たりとか、入社2~3年目の子が「彼氏できたので奈良に移住します。そこで営業するので奈良支社作りますね」というケースもありましたね。別に結果さえ出してくれれば問題ないと思っています。
失われた30年という言葉があります。経済が伸び悩み、減少の一途をたどる人口などここ最近の日本にはいい話題があまりありません。その一端は、この国にいまだ残る立場や年齢を気にする文化や失敗を過度に恐れる土壌にあるのだと思っています。そう考えるとこれからの企業に重要なのは、全員が経営者であるという当事者意識と、それを裏付ける個人の自由裁量や意思決定権だと考えています。
人にとっては突拍子もないスタイルだと思うでしょうね。でも、ほんの10年前は副業も、リモートワークも男性の育児休業も、ほとんど存在しませんでした。それが今やすっかり市民権を得ています。私たちのこのやり方は100年後の日本ではごくごく当たり前になっているのではないかと考えていますよ。
江戸時代にいた武士は明治維新で一人残らずいなくなりました。農業国だった国が産業革命で工業国になり、最近ではインターネットの登場により様々な産業が緩やかに統廃合されてきました。そして今、AIが大きくビジネスを変えています。人口減少や少子化がそれに追い打ちをかけるでしょう。グローバル化はこれからも加速します。私は、ここからの20年で9割の人が職を変えると思います。
既得権益を持っている人は変えようとしないでしょう。これからも変わらず自分の意図に沿うように行動してくれる人を集めて列に並ばせる。若い人にはどうかそうなって欲しくないと思っています。私は、社会とは古い価値観をその時代その時代の若者たちが変えることで連続していく、より良くなっていくことだと信じています。
母方の実家が本屋だったことから小さいころから本ばかり読んでいました。伝記だったり漫画だったり、登場人物はいつだって世の中をより良く変えてきました。そんな物語に囲まれて育ったせいか、私は今も、この世の生きる人物は全員世の中を変えるヒーローじゃないかと思っています。別に大きなことをしろと言うわけではなく、おかしいと思ったらおかしいと声をあげればいい。一度声を上げられたら、次は声だけじゃなくて行動もしてみるといい。
グローバルパートナーズでは、そんな「あたりまえ」に胡坐をかかずに行動できる方をお待ちしています。この会社は、そんなあなたに自分の足で自分の人生を切り拓ける力をつけることができる場所です。
長くなりましたが最後まで読んで頂きありがとうございました。もし興味を持って下さったならば、どうぞご連絡をいただければと思います。皆さんとお話できることを楽しみにしています。